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「目的」は意外と危険?

最近,國分功一郎氏の「目的への抵抗」という本を読んで,色々と頭に浮かんだことがあったので備忘録的にブログに書いてみようと思いました. この手の話は完全に素人で拙い文章ですが,どうか温かい目でお付き合いください.

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「目的への抵抗」に書かれていること

「目的に従って行動する」と聞くと,模範的なことだと感じる人は多いと思います. 実際多くの場面ではそうだと思いますが,いつでも目的に従うのは危険な側面もあるよ,という話が「目的への抵抗」には書かれています. 少し長くなりますが,この本に書かれていることをまとめてみます.

コロナ禍における「移動の自由」の制限

この本の前半は國分氏の「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」という東大でのオンライン講義を書き起こした内容で,講義は YouTube でも見れます. 高校生向けの講義で素人にも分かりやすい内容です. www.youtube.com

話題の出発点はジョルジョ・アガンベンという世界的に有名なイタリアの哲学者の新聞への寄稿です. その中でアガンベンはコロナ禍における移動制限などの行政の対応を「平常心を失った,非合理的で,全く根拠のないもの」と痛烈に批判し,結果炎上したそうです. 当時の逼迫した医療現場のことを考えれば炎上するのも自然で,本の中でも一時的な移動制限は必要だったと述べられています.

一方で「移動の自由の制限がほとんど抵抗なく受け入れられてしまったことは警戒すべき」というのが本書の主張です. 移動の自由というのは,実は個人の持つ権利の中でも特別なもので,その重要性や歴史的経緯は本の中で詳しく述べられています. コロナ禍において,その自由は行政によって事実上制限されてしまいました. 通常であれば,移動を制限する法律ができたわけではないので,行政には個人の移動の自由を奪う力はありません. しかし実態としては,コロナ禍への対処を目的として,ほとんど抵抗なく行政による自由の制限が実現しました.これが実は恐ろしい事態であると指摘しています. 少し極端に議論を拡張すると,こうして行政に法律を超えた力を持たせた結果,ナチス・ドイツによる支配が起きてしまったという歴史的経緯があるようです. アガンベンもこの歴史的事実を念頭において,移動制限を批判したのだろうと考えられています.

目的という概念

コロナ禍での移動制限は「コロナ禍に対処するという目的のために,移動の自由の制限が正当化された」という構図になっています. 本書の後半で議論の中心となるのは,ここで現れる"目的"の概念です. 特にハンナ・アーレントという,目的の概念を追求した哲学者による”目的の定義”が重要になってきます.

アーレントの目的の定義

目的とはまさに手段を正当化するものであり,それが目的の定義に他ならない.

ここで強調されるべきは「目的はしばしば手段を正当化する」のではなく「目的という概念の本質は手段を正当化することである」という点です. 例えば,

  • コロナ感染拡大抑止という目的は,移動制限を正当化する.
  • 志望校合格という目的は,頑張って勉強することを正当化する.
  • SNSで反応を稼ぐという目的は,話題の店に写真を撮りに行くことを正当化する.

といった具合です.このように何かを「目的だ」と思ったとき,そこには常に手段の正当化が伴うということです. アーレントは目的による手段の正当化の突き詰めることの恐ろしさを指摘しています(アーレントユダヤ系の人物で,ナチス・ドイツから逃れるためにアメリカに亡命したという経緯もあるようです). ただし注意すべき点として,目的による手段の正当化は常に悪ではありません. 実際,コロナ禍における移動制限は一時的には必要でしたし,環境や貧困などの問題に取り組むために正当化が必要な活動もあるでしょう.

一方で,今の社会は何でも目的合理性に還元される傾向があり,目的からはみ出ることが許さない風潮があります. コロナ禍における自粛警察はこの風潮が顕在化した例だと思います. より日常的な場面でも,

  • 受験期の学生が勉強以外の興味の対象を見つけても,それに時間を費やすのは許されないと感じる.
  • 日頃 SNS に映える写真を投稿していると,個人的には良いと思うけど映えない店に入るのを避けてしまう.

といった雰囲気があると思います.

歴史上では,目的合理性を過激に突き詰めた結果ナチス・ドイツによる支配が実現してしまいましたが, 現代社会ではもっと人々が認識しにくい形で,緩やかに目的による支配が実現されつつあると言います. これは裏で誰かが意図的に支配しているというより,資本主義や消費社会のメカニズムの結果としての支配です. そして,我々がこの事態に対する警戒心を捨ててしまうと,いつしか移動の自由のような重要な権利さえも失う結末になるかもしれない. だから,目的合理性に対する警戒心を持ち,目的からはみ出る部分にも目を向けた方が良いのでは,ということが本書の中で詳しく語られています.

特に「目的からはみ出る部分」というのは,國分氏が以前出版したベストセラー「暇と退屈の倫理学」で語られる「贅沢」や「浪費」の概念と対応していて, そこでの議論がコロナ禍を経て社会や政治に拡張されている点も「目的への抵抗」の面白いポイントだと思います. 気になった方はぜひ読んでみてください.

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アドラーの「目的論」との繋がり

「目的への抵抗」の紹介が長くなってしまいましたが,ここから私がこの本を読んで思い浮かんだことを,取り止めのない内容ですが書いてみようと思います.

この本を読んでしばらくしてから,数年前に読んだ「嫌われる勇気」という本に目的論という考え方があったのを思い出しました. 最初は単に言葉が似ているという理由で思い出したのですが,何となく中身にも繋がりがあるように思えてきました.

「嫌われる勇気」は,岸見一郎氏・古賀史健氏によるアドラー心理学の教えを哲人と青年の対話形式で綴った書籍です. おそらく最も有名な自己啓発書の一つで,メディアでもよく紹介されていてるので,読んだことのある人も少なくないと思います.

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「嫌われる勇気」の内容を追うと長くなってしまう(そして要約もたくさんある)ので,ここでは目的論に絞って紹介します. 本の中で出てくる例え話がわかりやすいので,ここでもそれを使います.

過去にいじめや虐待などを受け,引きこもりになってしまったAさんがいるとします. この状態を説明する論理としてよく使われるのが原因論です. 過去のトラウマが原因となって現在引きこもっているという考え方で,これは分かりやすいと思います.

これに対して目的論では,Aさんには引きこもる目的があり,その目的達成のために引きこもっていると考えます. 少しわかりにくいポイントですが,ここでの目的は例えば「外に出ないこと」です. より深掘りすると「外に出ることによって,自分が何もしてこなかった凡庸な人間であるという現実を直視したくない」といった目的が考えられます. その目的を達成するために引きこもっていると考えるのが目的論です. これだけ聞くと「過去のトラウマを言い訳にした甘えを許さない厳しい考え方」という感じがしますね..

アドラー心理学はこの一見厳しい目的論に立脚し,過去のトラウマに代表される原因論的な考え方を否定します. 正確には「過去の経験は確かに影響力を持つが,その経験にどのような意味を与えるかは本人が選ぶものであり,その選択が現在を作る」と言うのです. そう考えることによって「どんな経験を背負っていても,その経験に対する意味付けを適切に選べば,人は誰でも変わっていける」と議論が展開していきます. 逆に原因論の立場に立ってしまうと,過去の辛い経験が現在を決定してしまい,立ち直る余地が残らないのです.

とは言え最初に目的論を読んだ時,個人的には理解しきれない部分もありました. 確かに目的論は「人は誰でも変われる」という結論に向かって筋は通っていて,思想としては多くの人の背中を押し得ると思います. 一方で実態として,Aさんは本当に目的達成を目指して引きこもっているのか?という部分は疑問が残ると感じていました. 本の中ではさらに「現状が不幸でも”変わらない”ことがしばしば選ばれるのは,例え不幸でもその先何が起きるか予測できて安心だから」という説明もあるのですが,それが「目的達成を目指して引きこもること」に対応するかと言われると,繋がりが見えにくい気もします.

アーレントの定義による目的論の理解

この部分の理解を深めるのに「目的への抵抗」で読んだアーレントの目的の定義が使えるかもしれないと思いました. 目的とは手段を正当化するものという定義です. 再び引きこもりのAさんの例に戻ると, Aさんは「外に出ない・現実を直視しない」という目的を(無意識的にかもしれませんが)持っています. この目的は引きこもるという手段を正当化します. これらを踏まえると,Aさんは目的達成を目指しているというより,正当化を求めていると考えるのが自然に思えてきます. この正当化を求める作用の要因は色々考えられます.例えば

  • 社会的要因:目的合理的な社会に影響されて,正当化された行動しか取れないと感じている,など.
  • 生理的要因:目的の認識が脳内で何らかのシグナルを発し,正当化された時の脳の状態を求めるようになる,など.

前者は「いつもと違うことをするのは,自分のキャラに合わない」という感覚にも近いかなと思います. 「引きこもり」という周囲から見た自分のキャラに合った行動こそが,正当だと認識してしまっている状態です. 後者は例えば「課題を放置していると何となく不安を感じる」といった時には,脳内でも何かが起きているだろうという考えです.

正直まだ議論を詰め切れてはいませんが,仮に正当化を求める作用が一般に存在するならば,いじめられれば引きこもりやすくなる傾向があることも説明がつきます. 結局のところ,正当化を求める作用は本の中で語られていた「不幸でも変わらないことを選んで安心を求めること」に近いのかもしれませんが, こうして「外に出たくない」という目的と「引きこもる」という手段の間を正当化を求める作用で補ってみると,目的論による説明が少し理解しやすくなる気がします.

「目的への抵抗」によって生き方を選ぶ

「嫌われる勇気」では目的論を踏まえた上で「今不幸だとしても,それは自身の選択の結果という後天的なものだから,勇気を持って生き方を選び直せば幸せにもなれる」と話が展開していきます. 結論は「 勇気を持って生き方を選び直せば幸せになれる」というシンプルなもので,アドラー心理学は勇気づけの心理学とも言われています. その結論に至る筋道が色々と組み立てられていて,目的論もその中で登場する考え方です.

一方で,そうは言われても勇気が出せないケースが多いのも事実です. そこで「目的への抵抗」の視点から,アドラーの目的論の議論を捉え直してみたいと思います. そうすることで,必要な勇気のハードルが少し下がり得るかもしれない,と個人的に思っています. ここからの議論はかなり無理矢理で個人の感じ方次第な面もありますが,ご了承ください.

再び引きこもりのAさんの例に戻って,「目的への抵抗」の視点から解釈し直してみます. Aさんは「外に出ない」という目的を持っていて,その目的に正当化された「引きこもる」という手段を取っています. 「目的への抵抗」でも議論されていた通り,過度な目的合理性は時として自由や贅沢を奪います. ここでは,それこそ「移動の自由」が奪われています.移動は「外に出ない」という目的に反するからです.

ここで「目的への抵抗」で提示されていた目的合理性に抗う方法を思い返すと,

  • 過度な目的合理性への警戒心を持つこと
  • 目的からはみ出ることも大切にすること

があります.これらの目的に抵抗する考え方を,Aさん例に適用してみます.

まず,アドラー心理学で言われる「勇気さえあれば幸せな生き方を選び直せる」は,裏を返すと「今不幸なのは勇気が足りないから」ということになります. 勇気が足りないと言われると,何となく咎められている気がしてしまいます(実際は咎めているのではないということは「嫌われる勇気」にも書かれています).

一方「目的への抵抗」に書かれている目的合理性への警戒心の重要性を知っていて,「外に出ない」という目的を持っていることを認識できれば, 例えば「歴史上でも人類は極端な目的合理性が原因で失敗もしてきた.今自分は外に出ないという目的に従い過ぎているのかもしれない.」と考える余地が出てきます. 無理矢理に聞こえるかもしれませんが,アドラー心理学で「勇気が足りない」と自身に突きつけられていた問題を,少し「目的合理性の危険性のせいにしてみよう」と考え直すと,心理的負担が減る気がします.

そして「目的からはみ出る」については,外に出るまでは行かなくとも,まずは例えば「窓から外を眺める」などの行動が考えられると思います. 「外に出ない」という目的に対して「窓から外を眺める」は目的からはみ出た行動と言えそうです. そういった行動を必ずしも勇気を持って選ぶ必要はなく,あくまで「目的に従い過ぎるのは危ないから」選ぶという考え方も良いのではないかと思います.

別の側面として,こうした思想が広まり目的合理性重視の風潮が弱まれば,結果として引きこもりが外に出やすくなる可能性もあります. 「引きこもりは引きこもりらしくしないといけない(目的に反してはいけない)」という雰囲気が弱まると,外に出やすくなるということです.

ここまで引きこもりのAさんの例に沿って考えてきましたが,他にも例えば, 何かの因縁で疎遠になってしまった人に対し,しばしば「気まずいし面倒だから関わりたくない」という目的が生まれ「会わない・連絡を取らない」という手段が正当化されます. しかしそこで「あいつも悪いやつじゃないし,色々苦労もあるんだろうな」と少し目的をはみ出て想いを馳せるだけでも,結果的に執着心が薄れて気が楽になるということはあると思います(最終的に関係をどうするかはさておき). また,このブログ記事も,普段であれば私の中で「不慣れなテーマで的外れなことを書いて恥を晒したくない」という目的があって「何も公開しない」という手段が正当化されるのですが,今回はその目的をはみ出して公開している,という節があります. このように「たまには目的をはみ出してみるのも良いらしい」という考え方を知っていると,勇気を振り絞れずとも,小さな生き方の選び直しがしやすくなると思います.

さいごに

この記事では「目的への抵抗」を紹介し,それを踏まえてのアドラーの「目的論」についての考察を書いていました. 「目的への抵抗」ではどちらかと言うと政治や社会の目的に着目していて,一方アドラーの目的論は個人の人生や幸福に目を向けた内容ですが,双方の目的の概念の間に関係が見えるのは面白いと思いました.

今回は「目的への抵抗」とアドラーの目的論との関係について考えてみましたが,「目的」に関連して考えてみたいことは色々あります. 特に,最適化の研究者としては「目的関数」と目的の概念との関係はやはり気になります. 「目的への抵抗」の前半のアガンベンの話の部分では「例外状態(緊急事態)への対処という目的が手段を正当化し自由を奪う」といった議論も出てくるのですが, オペレーションズ・リサーチ(OR)が軍事作戦の最適化のために生まれたという歴史的経緯も,戦争という「例外状態」の対処を目的として OR が生まれたと捉えることができます. そしてその分野では「目的関数の最大化・最小化」が至上命題であるというのは,やはり当時の思想の影響もありそうだなぁと妄想しています.

余談:趣味として哲学を学んでみる

これまで哲学に関する書籍はほとんど読んでこなかったのですが,今回たまたま読んでみると想像以上に楽しく,こうして趣味的に哲学者の考え方をかじってみるのもいいなと思いました. 他にもおすすめの本があれば教えてもらえると嬉しいです.

「目的への抵抗」で國分氏は「哲学というものを勉強すると,世の中に溢れている紋切り型の考え方から距離を取れる」と語っています. 今の世の中には様々な議題に対して賛成・反対に行き着くテンプレート化された思考が存在しますが,哲学を学ぶとそれに収まらない考え方の素養が身に付く,ということのようです. (これも「テンプレート化された思考」=目的合理性,「それに収まらない考え方」=目的からはみ出ること,と解釈できるように思えます.) 研究者として仕事をする上でも,生き残るためには「業績を増やす」という目的は目指さないといけないけれど,一方で「論文にはならないけど面白そうな対象に目を向ける」こともやはり必要だと思います. 今回哲学に興味が湧いたのもそういう気持ちがあったからかもしれません.

しかし基本的には目的合理性が必要なのも事実です.また特に,人を何かの行動に駆り立てる動機として,目的は重要な役割を果たしていると思います. あくまでも目的に執着し続けると危険なこともあるので,時々見直したり,はみ出したりしてみてもよい,ということですね. (なので私も本業の研究を進めていく必要があります..)

謝辞. 目的論のことは,居酒屋で妻に「目的への抵抗」の内容を紹介していて,何度も「目的」と口に出しているうちに思い出しました. こういう議論をいつも楽しんでくれる妻に感謝です. 当時も特に目的なく会話していたら偶然思い出せたので,やはり目的にとらわれないことも重要だと実感しました.